鄧小平が激怒した、金正日の“修正主義呼ばわり”
こうして中朝関係は冷え込んだ。 シリーズ!脱中国を図る北朝鮮⑦
金日成に逆らった金正日
平壌に帰った金日成主席は再度、金正日を北京に送ろうとしましたが、「中国が修正主義の道を歩むのは中国の問題。中国自身で決める事。ただし、主体朝鮮は中国の言いなりになる必要はない。我々は我々式で行くべきだと思う」と述べ、父親である金日成主席に逆らいました。
金日成主席は、鄧小平の助言に従って、「現体制に影響のない範囲なら、中国のような改革開放政策を考慮してもよい」と改革を考慮する姿勢もみせていましたが、前述のごとく金正日の反対に遭って、進展しませんでした。
韓国に亡命した、元朝鮮労働党書記の黄長燁によると、「金正日は、中国に悪罵の限りを尽くした。北朝鮮の人間が中国の開放都市を見るのも、万里の長城を見ることすら禁じた」と言う事で、首尾一貫して中国を嫌っていたそうです。
鄧小平は、金正日体制について、「中国は危険に曝されるかもしれない」と言っていました。当時は、南北間の高官級対話も始めていたのですが、1970年代後半から80年代にかけて金正日氏は、「対南工作」のために相次いで拉致を指示しました。
さらに80年代には、ラングーン爆破テロ事件や大韓航空機爆破事件などの、相次ぐテロ事件の計画、実行をはじめ、核とミサイル開発など、まさに鄧小平氏の懸念どおり金正日体制は、中国を危険にさらす」体制となったのです。
金正日は、1983年に2回訪中して以降、17年間も中国に行くことはありませんでした。
こうして中朝関係は、金正日体制が確立してから一気に冷え込んで行きまし
た。
(『北朝鮮の終幕』より構成)
〈シリーズ!脱中国を図る北朝鮮⑧は2日後に配信します。〉
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